☆Hikoさんの小部屋☆

2008年11月 9日 (日)

NEW!空気の冷たさに晩秋を感じるようになりました。

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空気の冷たさに晩秋を感じるようになりました。

しばらく時間が経ってしまいましたが、

また範彦について語っていこうと思います。

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・1960年5月29日 

日本ギター連盟の第5回日本ギター音楽コンクールに於いて 

第3位に入賞しました。

これは大きなコンクールへの初めての挑戦でした。

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・1960年6月26日 

第5回日本ギターコンクール入賞者発表演奏会のプログラムに
  

     序曲          カルリ
  メヌエット25より   ソル
  ソナタ OP15~2      ソル 

とありますので、これらが、コンクールでも弾いた

曲かと思われます。

この受賞は12歳の範彦に大きな自信をもたらしました。

そして同じ年の秋にはもう一つ、

範彦にとって大きな出来事がありました。

ナルシソ・イエペスが来日し、神戸にて、

初めて世界的なギターリストの演奏をじかに聴いたことです。

更に歓迎会においては歓迎演奏をしました。

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1960 

又、先生の松田二朗氏が、イタリア、スペインへ

一年間の留学することになり、その間は月村嘉孝氏に師事しました。

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2008年7月13日 (日)

梅雨明けが待たれる今日この頃です。

No3_3 梅雨明けが待たれる今日この頃です。 

範彦が12才頃の事を書きたいと思います。

その頃に演奏した記録には、

次のようなものがあります。

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■1959.7.26 読売テレビ「仲よし日曜音楽会」優秀者大会にて 

メヌエット(ソル)を演奏 ↓

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■1959.10.10 松田二郎門下生発表会にて 

アレグロスピリットOP15(ジュリアーニ)を演奏 ↓

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■1959.11.9 神戸新聞会館にて「子ども音楽コンクール」で

一位を受賞、ハーモニカと学用品を頂く。

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■1960.3.12 毎日テレビにて ギャロップ、カプリチオ、

愛のロマンス、序曲を演奏 新聞テレビ欄切り抜き↓

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■1960.3.19 神戸市小学校にて 

モーツアルトの魔笛による主題と変奏曲(ソル)、愛のロマンスを演奏 

■1960.5.17 神戸市音楽研修会にて メヌエット作品11~6(ソル)、

序曲(カルリ)を演奏

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小学校6年生の範彦にとって、勉強と練習の両立は大変だったようです。
その頃の逸話ですが、レッスンに行く時間が来ているのに、

範彦はめずらしく「今日は行きたくない。」と言いました。

どうしてかと母親が尋ねると、練習のし過ぎで指先から

血が流れているのでした。

母親いわく、「誰でもある事で、そんな弱い事でどうするの。」と

行きたくないと言う範彦の手を引いて、レッスンに行ったという事です。

母親は範彦のギター教育に熱心な人でした。

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No1_4  6月6日に発売されました、ホマドリーム社発行の

「ギタードリームNO.11」の中で、

マリアデュオ「きょうも元気ギターが楽しい」の対談で、

私が範彦の思い出を語っておりますので

読んで頂けたら幸いに思います。

No2_3巻末のCDには1976年8月のライブ録音から5曲収録されています。

そのNO.23では「愛のロマンス」を聴くことができます。

過去にはNHK「ギターを弾こう」のミニミニコンサートで弾いておりますが、

多くの方には耳に新しい演奏だと思います。

2008年5月19日 (月)

国分寺市内藤、そして西恋ヶ窪にて教室を開いた頃の写真

5月に入り、まぶしい新緑は初夏の薫りがいたします。

4月19日の「渡辺範彦メモリアルコンサート」には

大勢のお客様をお迎えし、盛会裏に終わりました。

お出で頂いた皆さまには、4時間半にわたって、

お付き合い頂き、誠にありがとうございます。 

又プレムジカの方々の、多才で素晴らしい演奏を楽しませて頂き、

あらためてギターの魅力を感じました。

そして何より天国の範彦は

プレムジカの方々の演奏を久しぶりに聴き、

充たされた時間を過ごしたことでしょう。

範彦は自分が残した音楽の中だけでなく、

お弟子さん方の音楽の中においても生き続けていくのだろうと、

実感した一日でした。

今回は、国分寺市内藤、そして西恋ヶ窪にて教室を開いた頃の

写真を載せたいと思います。

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↑1973年国分寺市内藤にて初めて教室を開いた頃

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↑1975-1976 NHK「ギターを弾こう」録画撮り風景-1

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↑1975-1976 NHK「ギターを弾こう」録画撮り風景-2

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↑1975-1976 NHK「ギターを弾こう」録画撮り風景-4

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↑1975-1976 NHK「ギターを弾こう」録画撮り風景-5ゲストの方と打ち合わせ

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↑1975-1976NHK「ギターを弾こう」録画撮り風景-3

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↑1978年 国分寺市西恋ヶ窪に転居した頃

2008年4月 2日 (水)

少年時代のお話

shine陽光は暖かく、春風のやさしい季節になりました。

ベランダの温室では、シンビジュウームのピンクの花が咲き始めました。
これは範彦が、7年前の私の誕生日に贈ってくれたものです。そして毎年咲き始めるのが、範彦の命日の頃なので感慨深いものがあります。

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2月29日は範彦の命日で、毎年その頃になりますと、

1年目、2年目と偲んでまいりました。

4年ぶりに廻ってまいりました今年のこの日は、実感が強く、

最期の頃の様子が思い出され、胸に迫るものがありました。

辛い思い出になりますが、その頃はミニシュークリームと苺しか口にせず、病室で毎朝、一緒に食べていました。食べてくれるならと、果物屋で上等で、甘い苺を買うのが私の日課になっていました。

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少年時代の範彦のお話にもどります。

12歳になった頃には松田先生のレッスンに一人で通うようになりました。
レッスンは厳しく、「叱られた。」と帰って両親に話す事が多かったそうです。

時には「もう来なくていい。」と言われた事もありました。

それでも範彦はギターを辞めたいとは言わなかったそうです。

ただ繰り返し練習をする日々でした。
その頃、松田先生の先生でいらっしゃった、

故月村嘉孝氏からもレッスンを受けるようになりました。

ご年配でもあり温厚な方で少年範彦に丁寧に教えてくださったそうです。

松田先生の厳さと、月村先生の支援を受け、

多くの影響を頂きながら範彦のギター音楽は上達していったのだと思います。

範彦には当時、悩みがありました。それは使っている楽器が

粗末でいくら調弦しても、先生の楽器と音程が合わないことでした。
父親と新しい楽器を買いに行きました。

父親は2万円ので十分だと思いましたが、他の楽器と弾き比べていくうちに、

範彦は5万円のドイツ製の音に強く惹かれ、一歩も譲らず、

その楽器を手に入れる事ができました。

嬉しくて、夢中で練習している様子が目に浮かぶようです。

一方母親はラジオやテレビの番組で力試しをさせたいと、応募をしました。
<ラジオ神戸:クラッシック登竜門>では、シャルルドアジ作曲、

ソナタ第3番を弾き、<読売テレビ:仲良し日曜音楽会>では、

カルリ作曲、序曲を弾き優秀賞を頂きました。

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2008年1月19日 (土)

新しい年を迎えて

(※管理人の手違いにより、掲載がかなり遅くなってしまったことをお詫び申し上げます。)

<新しい年を迎えて>

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鏡開きも過ぎましたが、新年明けましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
皆さまにとって、良い年でありますようお祈り致します。

今日は、休日を家族と過ごす範彦の写真を集めました。
休日には家族で買い物に行ったり、子供と過ごすのが好きでした。
またテレビもよく見ていました。特に好きだった番組は「相撲」で、他は「洋画」や「国会中継」・「政治家の討論番組」でした。音楽番組はあまり見ませんでしたが、「美空ひばり」が歌っているのを聞くと、やっぱりうまいなと言っていました。

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↑長男と砂遊び(1977年)

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↑長男を抱いて、新幹線のホームにて(1978年)

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↑長男とトランプ遊び(1979年)

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↑長男と凧揚げ(1980年正月)

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↑料理をしている(1986年)

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椿

2007年12月31日 (月)

年の瀬が近づいて

  玉川上水の木立もすっかり葉を落とし、遊歩道は落ち葉が心地よいクッションになっています。

先日、懐かしい場所へ行ってきました。
そこは私達家族が長く住み又お弟子さん方がレッスンに通って来られた、国分寺市西恋ヶ窪の自宅跡です。今は北隣りにお住まいの方が所有されています。門柱と塀は当時のままで、門の中を見せて頂きましたら、一面青々とした芝生が陽射しをいっぱい浴びて輝き、バラが美しく咲き、一角には野菜も育っていました。門の前に立つと、門の中すぐ右手にあった部屋が思い出され、窓からはギターの調べ、そして範彦とお弟子さん方の談笑が聞こえるようでした。

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↑懐かしい西恋ヶ窪の元自宅の門

思い出の多い国分寺市の”名所”を一つ紹介します。
「日立中央研究所」
11月18日は年2回の庭園開放日でしたので散策してきました。案内書によりますと当研究所は1942年に設立され、敷地207000㎡(東京ドームの約5倍)、自然環境は樹木27000本、野鳥40種類、構内数ヶ所の湧水を利用した大池があり、その湧水は多摩川に注ぐ「野川」の源流の一つになっています。

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↑「日立中央研究所」庭園にて1

 
この日は風もなく空は青く、見上げると大きな欅が枝を広げ、様々な木が色々な表情を見せ、冬を迎える前の武蔵野の面影を満喫できました。

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↑「日立中央研究所」庭園にて2

また、私の好きな檀(マユミ)の大きな木が、たくさんの真っ赤な実をつけているのに出会いとても嬉しかったです。
大池の水が溢れ、水門から音を立てて出て行くの見て湧水が絶えることの無いようにと思いました。

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↑「日立中央研究所」庭園にて檀の木

範彦のお話に戻ります。
日南で歌謡曲の先生にギターを習っておりましたが、先生から「範彦にはもう教えることが無い」と言われ父親は途方に暮れたそうです。
1958年に神戸市に転居し、小学校4年3学期からは、以前在籍していた神戸市の小学校に再び通うことになりました。音楽の成績はいつも「5」を、5年生の一年間は1日の欠席も無く皆勤賞を頂くなど、元気に積極的に学校生活を送っていたようです。
父親は自宅から1.5K程の所に松田二郎氏がギターを教授している事を知り、入門させて頂くことになりました。ここから範彦のクラシックギターの勉強が始まりました。

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↑1958年2月 「クラシック登竜門」出演通知のはがき

範彦を支えていたのは、既に、範彦のクラシックギターにおいての大きな可能性を感じていた母親の熱い思いでした。毎日、15時になって母親が窓から外にいる範彦を呼ぶと、友達と遊んでいてもすぐ帰って来て、母親と1時間の練習を欠かさなかったそうです。「お母さんっ子」の範彦にとってその練習は楽しいものだったようだと父親は話しています。母親は上達していく範彦の腕試しにと、機会あるごとに放送局の番組に応募していたようです。

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↑1958年10月松田古典ギター研究所発表会プログラムより1

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↑1958年10月松田古典ギター研究所発表会プログラムより2

長男とクリスマスの飾りつけをしている写真がありました。小さい子供と接する範彦の表情はやさしく和らいでいました。

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↑ 1976年12月長男とクリスマスツリーを飾る

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↑1977年1月雪の日に西恋ヶ窪自宅前で

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2007年11月21日 (水)

初めてギターを手にした頃の事

今回は、範彦が初めてギターを手にした頃の事を書こうと思います。

小学校に入ってからも範彦がやんちゃなので、両親は楽器を弾く事で少しは落ち着かせたいと思いました。
その頃は、古賀政男の曲が大変流行しており、両親も古賀メロディーが好きでよく聞いたり歌ったりしていました。8歳の範彦も子供ながらに古賀メロディーのギターの音色に親しんでいましたので、父親が歌うと「そこは音程が違う」と指摘したそうです。
ギターは一番身近な楽器でした。初めは自己流で歌謡曲を弾いて、父親と楽しんでいました。

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<↑範彦(8歳)妹と>

1957年範彦9歳の時、父親の仕事の都合で故郷の日南市油津に転居し、4年生の8ヶ月間を油津の小学校で過ごしました。
近所にギターで歌謡曲を弾く男の方がおりまして、その方に範彦は初めてギターの手ほどきを受けました。
上達は早く調弦もすぐ覚えました。町内の祇園神社のお祭りの舞台で弾いたり、病院を慰問して弾いたりしていましたので、油津の町ではギターの上手な少年として一躍有名になったそうです。

小学校4年生の3学期の3ヶ月には、父親の仕事の都合で上京し東京の豊島区の小学校に通いました。
後に同じ豊島区の河野ギター製作所にて、働きながらギターを学ぶ事になるのですが何か運命的なものを感じます。

1958年範彦11歳、小学校5年生になって再び神戸市に戻りました。そして松田二郎氏の門をたたく事となりました。
その当時の様子は、後の1967年、範彦ギターリサイタル全国公演のプログラムの中で、松田氏が寄せたメッセージに書かれています。

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<↑松田二郎氏から頂いたメッセージ>

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<↑1967年全国公演プログラムより>

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<↑1967年全国公演曲目>

2007年10月15日 (月)

読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋・・・

読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋、・・・良い季節になりました。

範彦は、新聞はよく読みましたが読書家ではありませんでした。
愛読書のひとつは、宮沢賢治の童話で「よだかの星」でした。
漫画では長谷川町子の「いじわるばあさん」。その”いじわる”を嬉しそうに(笑)読んでいました。「ドラえもん」も好きで、子供に借りては何冊もみていました。

範彦は、スポーツが得意で好きでした。
子供の時は友達とよく相撲をして遊んだと聞いています。好きな力士は「栃錦」と「柏戸」で、大人になったら力士になりたかったそうです。
テレビで相撲のダイジェスト番組があった頃は、生徒のレッスン後、夜遅くにそれを見るのを楽しみにしていました。
大人になってから始めたテニスは、初めてにしては上手で勘がよかったようです。遊びでは卓球が好きでした。

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<↑卓球をして遊ぶ>

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<↑運動会にて 娘と競技に参加する>

秋には里芋を煮ることが多かったです。中でも粘り気の多い品種のを買ってきてとよく言われました。私は里芋の皮をむくと手がかゆくなりますので、里芋の注文が来るのが少しこわかったです。関西で育ったせいか お好み焼きやたこ焼きが大好きで、私が切った材料を混ぜて、楽しそうに焼いていました。

範彦の小さかった頃のことにふれます。

母乳ですくすく育ちました。1歳の頃、父親の仕事の都合で兵庫県明石市に転居しました。看護師で働く母親に代わって昼間は叔母が世話をしてくれました。機嫌もよく手のかからない赤ん坊だったようです。

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<↑両親と妹と>

2歳の頃神戸市に転居し妹も生まれました。幼児期は元気でやんちゃな子供でした。

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<↑動物園にて 妹と>

1954年、小学校に入学しました。18学級と記してありますので、18組ということでしょうか。まさにベビーブームの真っ只中でした。
入学後も”やんちゃ”を大いに発揮していたようです。イタズラ好きな明るい少年期でした。通知表を見せてもらいましたら、音楽は低学年から「よくできる」がついていました。根気があまりなかった、と聞いていましたが、ギター練習時、同じフレーズを納得がいくまで繰り返す後の姿からは想像がつきません。

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<↑小学校入学>

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<↑妹と相撲を取る>

高学年になると社会科に興味を持ち、特に地理が好きだったようです。
一緒にテレビを観ている時、ニュースに出てくる地名がどこにあるのかよく教えてくれたものです。

2007年9月21日 (金)

お彼岸に寄せて

私は休日の朝、近くの玉川上水緑道をウォーキングしていますが、

先日は緑の中に2輪のヒガンバナが咲いているのに出会いました。

彼岸の入りを告げているかのようです。

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範彦の眠るお墓は、小平駅から徒歩12分位の所にあります。

あまり広くない霊園ですが、

6月と10月はたくさんのバラが満開になり見事です。
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手入れの行き届いた庭には四季折々の花が咲いていて、心がなごみます。
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そして自宅から自転車で行ける距離が嬉しいです。

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<小平ふれあいパーク>

住所:東京都小平市天神町2-361-7
●西武新宿線で新宿より約20分、「小平」駅より徒歩7分。
※駐車場完備

2007年9月11日 (火)

ごあいさつ

今日9月11日は、夫範彦の60回目の誕生日です。それにあたりメモリアルブログを立ち上げることに致しました。演奏からは知ることができない、範彦の人柄や素顔を家族が綴っていきたいと思います。
これを機に、範彦の音楽をより身近にまた違った角度から感じていただけたら、大変嬉しく思います。皆様からの思い出話や写真などもございましたら、どうぞお寄せください。宜しくお願い致します。

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<←幼少期の写真>

範彦は宮崎県日南市油津梅ヶ浜にて、父範義、母綾子の長男として元気な産声を上げました。当時の記録には1947年9月11日午前3時8分、体重800匁(=3000g)とあります。

「範彦」命名の由来は、父親の名から範をもらい彦は教養のある男子の総称の意味があることから、また父親の周りに「彦」とつく名前の偉い方が何人かいたから、ということだそうです。
範彦は「彦さん」の愛称で可愛がられました。

看護師であった母は、妊娠中は新鮮な魚をたくさん食べカルシウムの摂取に気をつけたそうです。その功あってか、範彦の爪は本当に丈夫でした。胎教として音楽を心がけたことは、特に無かったようです。範彦の父方の祖母が、その地域ではかなり有名な三味線の名手だったそうなので、その才能も受け継いでいるのでしょう。父親は勤勉・誠実・几帳面な性格で、今は亡き母親は日南に降り注ぐ太陽のように情熱的で感情豊かな人だった、と聞いています。

次回は、もう少し大きくなった範彦のお話を書きたいと思います。

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<↑梅ヶ浜の海>